”古臭くて時代遅れな育児脳のブログ”不要論
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トイトレ②を書く前に、ちょっと思った事を吐き出させてください。
理想論を振りかざす私のブログは鬱陶しいのかな
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個人ブログのサイトを立ち上げた1年前。
真面目にコツコツていねいに、他人様が読んで役立つような記事を書いていれば、1年くらい経った頃には読者も増えて、Googleの検索上位に上がってくるのかな、なんてぼんやり思っていました。1年前のあの頃は。
ところが1年後の今、アクセス数はジリ貧で、検索上位に上がることも殆どなく。
Googleアドセンスの収入も今月に入ってからはいつも以上に少ないです。
昨日の収益なんてたったの47円でした😂
きっと興味を持って読んでくださる方が、私の書いた記事を必要としてくださる方が、共感してくださる方が、私が想像している以上に少ないということを意味しているのだと思います。
理由はわかっています。
私は「障害児ママも自分自身の力でやれる範囲の限界までは頑張ってやるべき」というスタンスを貫いているからだと思います。
障害児育児はただでさえ辛いことが多いのに、「がんばれ」なんて言われたくない、もうがんばれない。限界だ。
そんなふうに追い込まれているところに「がんばろう!やればできる!」って、優等生発言。うざい。
できねーよ。もうがんばってるから。でもできないから。
その気持ちはわかります。私自身も同じ経験をしてきているから。
だからこそ、休んでもいいよ、頼っていいよ、誰かにまかせてしまってもいいんだよ。
そういう優しい言葉をかけてくれる人の方がいいに決まってる。
そうしたブログに助けられている人は多いことでしょう。
そうよ、子供は宝。社会全体の宝。子育ては、家の中で一人でがんばるものじゃない。
「子供は社会全体で育てるもの」なんだから。
そうなのかもしれない。社会全体で育てるものなのかもしれない。
でも。
だからといって、オムツを外すことまで、社会に任せるものなのか?
そこは親の仕事じゃないの?
そんなふうに思う私は、古臭くて時代遅れなんでしょうか。
本来やるべき努力を他人に丸投げする事を推奨する世論
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トイトレの記事を書いていて思ったんです。
私の記事、必要なの?
必要とされてるの?って。
私の記事は、私が太郎のオムツを外した約10年前のことを基準にして書いています。
その当時といえば、「トイトレをするのは親」「遅くとも3歳までにはオムツを外す」「最悪、幼稚園入園までには外す」というのが当たり前の時代でした。
そんな中、知的障害のある太郎は幼稚園入園までにオムツを外すことができず、幼稚園にオムツを履いて通うことになったわけです。
それでも先生にトイトレをお願いするのは気が引けて、やってくださいとは言えませんでした。
それで申し訳ないと思いつつも、オムツの交換だけはお願いして。
時期が来たら、私のこの手で太郎のオムツを外す。外してみせる。そう思っていました。
実際、年中の夏にオムツ外しを成功させました。
重度知的障害のある、意味のある言葉を話せない障害児のオムツ外しはなかなか大変だったんですよ。
だからこそ、同じように困っている障害児ママのヒントになれば…と思い、トイトレについての記事を書いているわけですが…。
ですが今、その情報必要なんですかね😂
だって今この時代は、定型発達の子でもオムツが外れないまま入園してくる子は珍しくないんだそうですよ。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
自分の子1人だけだったら嫌だけど、他にもオムツの子がいるなら怖くない。
なんならトイトレ幼稚園に任せてしまえばいいじゃない?
集団効果っていうの?
家で私がやるより、幼稚園でやってくれた方がお友達効果もあるから絶対ラクに外せるはず!
もしもこんなふうに思う親御さんが多いのであれば、私が書いている記事は不要ですよね(゚з゚)
なんていうか、障害があって大変なのに、そこまで頑張る必要あるー?みたいな😂
プロに任せちゃいなYO!みたいな。
でも、プロって。
「トイトレ」って本来、幼稚園や保育園の先生の仕事なんですかね?
厚意でやっているうちに、いつのまにか「オムツ外しのプロ」的存在になってしまったんですかね😅
でも、太郎が入園した幼稚園の担任の先生、新任の若い先生だったんですよ。
子育てもちろん、結婚をしたこともない。オムツを変えた経験もなかったと思います。
下の世話のプロなんかじゃないんです😂
なのに今ではやってもらって当たり前くらいになってる。
ママが大変だから社会はもっとママに優しく手を差し伸べるべき、つべこべ言わずにオムツを変えなさい、それがあなたたちの仕事でしょ?って。
けど、そんなんだから今、先生になりたいという人が減っているんじゃないですかね。
負担ばかりが増えて、それに見合う報酬がもらえるわけじゃない。
なのに「やって当たり前」という扱い。辛いですよね。
こんな記事を見つけました。
「トイレさえ行けない」幼稚園教諭の支援置き去り|【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)
幼稚園の先生は大変ですよね。
太郎が通っていた幼稚園でも先生の入れ替わりが激しかったように思います。
退職された先生のうちの一人が「子供たちと接するのは楽しかったけど、心身ともに負担が大きすぎるわりに給料が対価として見合わない。長く勤められる仕事ではない」とおっしゃっていたのを噂で聞いて、太郎のことで人一倍負担をかけていた私としては、なんとも申し訳ない気持ちになりました。
それにしてもトイトレは本来家でやる躾の範囲だったのに、大変な時代になったものです。
「昔は社会全体で子育てをしていた」なんて言う方もいらっしゃいますが、私の子供の頃は少なくとも赤の他人にオムツ替えやトイトレを丸投げしていた人はあまり見かけませんでした😅
そもそも「社会全体で子育てをする」っていうのは「悪い事をしている子がいたら他人の子でも叱る」とか、そういうレベルの話じゃないですか?
何が悪い事で良い事なのか、それを最初に教えるのは親の役目じゃないですか?
それなのに近ごろはなんでもかんでも親ファーストの意見がもてはやされているような。
世間では親がどう頑張ればいいかということよりも、いかに先生を頑張らせるかっていうことを書いた記事の方が読まれている気がします。
こういう記事を書くと「みんなあなたみたいに強くない」と言う方が現れるかと思います。
そして、頑張りたくても頑張れない事情の方も実際にいらっしゃると思います。
親御さんご自身が持病や心の病を抱えていて十分に育児ができない状態だったり。
お子さんがあまりにも手がかかり手に負えない状態であったり。
重い障害があり、一人では立ち行かない状態であったり。
そういう方は遠慮することなく、先生に、周りの人に頼っていいと思います。
私自身、太郎のオムツを入園までに外すことはできず、先生方の手を借りました。
何でも理想どおりに進まない、それが障害児育児ですから。
けれども、やろうと思えばできる人であれば、やっぱりまずは自分でできるだけ頑張った方がいいと私は思います。
そうでなければ、先生方がキャパシティオーバーしてしまって、本当に困っている人が助けを求めても対応してもらえなくなるのでは?と思うんです。
キャパオーバーするなら国がなんとかするべき。人材が増えるように動くべき。人を増やすべき。
利用者である私たちが頑張らなきゃいけないなんておかしいよ、とおっしゃる方もいるかもしれません。
でも国が動くということは、結局は私たちが納めている税金が使われるということであり、人を増やせば私たちが納める税金の額も上がっていくのです。
私立幼稚園なら、先生を増やすということは、私たちが園に払う金額がUPするということです。
そして「先生」は幼稚園だけでなく、小学校、中学校、高校なども人材不足らしいですよね。
需要に対して供給が追い付いていないのだとか。
教員不足解消へ「多忙な働き方、改善を」 現役教員らが提言発表(毎日新聞) – Yahoo!ニュース
学校はブラック職場だと書かれている記事もありました😅
こうした記事を読んで、私は思うんです。
本来、個々が家でできる最低限の躾を入園前に済ませておけば必要のない手間のために、先生を増やすことが正解なのか?と。
なんて、書いていて自分、昭和の遺物かよ😂くらいに思いましたわ。
こんな事を書いて、煙たい以外の何者でもないですよね😂😂😂
こんな古臭い育児脳の私の記事でも、楽しみにしていると言ってくださる方もいるので、需要少ないかもと思いつつもトイトレの続きは書いていこうかと思います😅
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うちは小1(特別支援学級)になっても未だに、大でトイレには行けずオムツでしかできないので、先生たちと対応を話し合って決めたのですが、やっぱり心苦しいです。
幼稚園の時は、なんとかしてトイレに行かせようとして、かえってトイレを嫌いになってしまったところもあり、どうすればよかったんだろうなあ、と振り返ると思ったりします。
うちは6歳でようやくおしっこだけはトイレでできるようになって、それかでものすごい大喜びしたのですが、なんとか大もトイレでできるようになれたらホントにうれしいんだろうなあと思います。
大は本当に心苦しいですよね( ;∀;)
私はお迎えに行ったときにまさに大をした後のオムツ替えをしているシーンを見てしまって、わかってはいたけどもショックでした。
(赤ちゃんのように寝転がってオムツ替えをしていました)
おしっこはトイレでできるようになったというと、大も本当はできるはずなのに「こだわり」からしないようにしているんでしょうね。
大だけはオムツでするという子の話は割とよく聞きます。
お子さんはトイレ以外の事でもこだわりが強かったりしませんか?
うちは幼児期は「こだわり」がかなり強く、生活に支障をきたすレベルだったこともあり、意識的にこだわり崩し(ルーティン崩し)をしてきました。
こだわり行動を受容するとどんどんこだわりが強くなり、大人になったときに手に負えなくなるので、できるだけ小さい頃からこだわらせないように工夫していった方がよいかと思います。
「大はオムツ」というこだわり化してしまう前に、もしもトイレで儀式的にルーティン化している行動があれば、全体的に見直してみるといいかもしれません。
(トイレはいつも決まったトイレに入るとか、トイレに入る前には必ず〇〇をするだとか、そういった類のことです)
すでに試されているようであればすみません。
絶対効果があるとも言えませんが、できるだけ小さいうちにこだわり崩しをやっておくと中学生くらいからぐっと育てやすくなると思います。
(いつかこだわり崩しについても記事を書いてみたいと思っています)
トイレは便秘が強くて痛くなったことが多かったこともあるのかもしれませんが、こだわりもあるのかもしれません。
こだわりは、たしかに小学校の入学前後で、非常に強くなって困っていることもあります。
こだわり崩し、考えたことがりますが、子供が好きなこと気になるところに、どこまで親が手を出していいか、悩むところです。
こだわり崩しの記事、ぜひそのうちお願いします。
こだわり崩すのは難しいので、基本的には「こだわり」につながらならないように大人が工夫して生活することになります。
うちは3回同じことが続くと「こだわり行動」になってしまうので同じ道を通らないとか、好きでも同じおやつばかり与えないとか、同じメニューを2日続けて出さないとか、ちょっとした事なんですけど全てにおいて「連続して起こらない」ように気を付けています。
それでも「こだわり化」してしまった場合は、例えばいつもは母とやっていることを父と一緒にやらせてみるなど、完全にこだわり行動を辞めさせるのではなく(辞めさせるとヒステリーを起こして暴れるので)、少しずつ崩していくことでこだわりを和らげていく…というやり方をしていました。
うちは今でもすぐに同じものを好み同じことをやりたがりますが、本人が好みそうな代替案を提示して、お互いストレスのたまらないやり方で「こだわり」を阻止しています。小さい子だとなかなかうまくいきませんが、継続してやり続けていればそのうち「こだわり崩し」をやっておいてよかったと思う日がくると思います。
太郎と同年齢で太郎よりずっと知的も自閉度も軽い子でも、親が子供のこだわりを増長させてきた(いつも同じものばかりを与えるなど)お子さんは今とても苦労されています。
太郎もこたろーパパさんのお子さんと同年齢の頃はなかなかこだわりを崩せませんでしたが、諦めずに意識してやっていくことでいつか楽になる日がくると思います。
また別記事として書かせていただきますね(^^)
トイトレについては、確かに私が子どものころには、3歳までに、という縛り?がありましたね。
ただ、3歳という数値目標を重視するあまり、出来ない我が子を叩いてしまうとか、母子ともにノイローゼになるとか、そういう弊害もあったようですね。それで数値目標のようなことはやめた、と記憶しています。
まあ確かに、上手く出来たら出来たで、出来ない人を怠惰な人間と見下したり、能力の低い子を馬鹿にするなど、子育ての意味を履き違えた親もいましたから、無理な目標が一律にされなくなったこと自体は良かったと思います。
しかしながら、親がそれに甘えて、出来ることすらしない、初めからやってみもしない、というのは一種の育児放棄ですよね。
出来ないことがあっても良い、成長は人それぞれなのだから、というのは、あくまで子どもの能力的な話であって、親の責任を果たさなくて良いという意味ではないはずです。
別にこれは、古い昭和の価値観ではなく、今も昔も、まともな親なら当然のことだと思いますよ。
子どもがうまく出来なければ親が手助けするし、出来る子でも周囲を見下したりせず謙虚にふるまう。
でも非常識な一部の親は、周囲も同類ばかりですから、なにがおかしいか気付かないんですよね。
ああ~。
確かにあの頃は「オムツがどんだけ早く取れたか」マウントを取る母親がいたような気がします(苦笑)
「オムツは3歳まで」という呪縛が解けたことは本当に喜ばしいことだとは思いますが、そのうえで親としてできるところまでやってみる、ということは必要だと思うんですよね。
でもそんな思いを文章にするとなんとなく古臭く感じてしまいました(;’∀’)
確かにこうした価値観に古いも新しいもないですよね。
サナさんこんにちは!
私もどちらかといえば、親ができる限りやれるところまで頑張って、
それでも足らないところを人に助けてもらうというスタンスでいます。
まずは親が、ってお考えは決して古くも間違ってもいないと思いますよ(^^)
ヂュミコさん、コメントありがとうございます(^^)
編み活がんばってますか?
自分が書いた文章を読み返していると、なんだか古臭いというか昭和臭が漂っている気がして(;’∀’)
自分でやれることはやる、できないことは助けてもらう。
シンプルに、それだけなんですけどね…。
こんにちは
サナさんの意見、大事だと思います。最近のお母さん達をみてて(あ、そんな言い方がもうオバサン)うっすら思ってました。
我が子達の幼稚園時代のママ友が今、その卒園した幼稚園で働いています。
その園は昔ながらの古い園で、昔も今もお知らせはプリントで配られます。それを読めば全てわかるはずなのに最近のお母さん達はすぐ連絡してくる、また子供達だけで行う行事もあり保護者はよんでいないのにおしかけてくる等。
義務ははたさないのに、権利は主張。
もう、なんていうか親のほうも子供なんですよね。
今は皆さんも昔に比べて共働きも普通で忙しいのもわかりますが、なんというか親としての責任というのを取り違えてきてる気がしてます。
何でもそうだと思いますが、一生懸命やっている人に対しては社会は快く手を貸すんです。
「子供は社会で育てるもの」という言葉に甘えて責任を放棄していたら、誰も手を貸してくれなくなると思います。
確かに母親ファーストも大事です。
何も子供の為に髪の毛振り乱して全てをかけろとはいいませんが、もう少し責任というものを考えてほしいなと思います。
結局巡りめぐってそれが子供の為になると思いますし
若い人の中にもきちんとした親御さんもいらっしゃるはずで、一部の方の言動で全体の印象が残念な感じになってしまう。
特に権利を主張するタイプの方の声は目立ちますね(;’∀’)
園や学校のためにやることは、巡り巡って自分の子にかえってくるのだと私も思います。
そこ、とっても共感です(=゚ω゚)ノ
いつも勉強させていただいています。特支高や就職などの記事は本当に役に立ちました。ブログ更新、大変かと思いますが、今後ともよろしくお願いします。
今は勉強が忙しいので時間のかかる記事は書けないのですが、試験が終わったらGoogle検索上位に上がるような「望まれる記事」を書いていきたいと思います(^^)
サナさん
楽しくもありますが、必要です。
よろしくお願いいたします。
ありがとうございます!
そう言っていただけるととても嬉しいです(*’▽’)
子どもの入園式で園長先生のご挨拶でのことばで印象に残っているものがあります。
躾はご家庭ですることです、とはっきりと仰ってました。障害のあるお子さんもいて、ほぼ付きっきりの補助の先生もいる園でした。発達障害があり療育併用のお子さんもいました。手厚い園と思いますが、躾は園に求めるものではない、と。 園内で公共の物に落書きした子は、親と一緒に消す作業をしていました。子に厳しいので無く親に厳しいのかな(笑)長期休みの後には休み中に体験したことや、子どもが成長したことを親が記入して提出するいわゆる宿題もありました。
うちは親も子も満足いく幼稚園でした。幼稚園だから、不満ある方は転園されたし、合わない方は園からうちでは難しいと断られます。そういうものかな、と思います。
人に仕事をお願いしたら、それに見合う対価をお支払いするのは当然です。それは子育て以外でもです。善意に頼り過ぎたら、その組織は崩れてしまいます。
そんな風に確固たる方針のある園であれば、合わない人はそもそも入って来なさそうでいいですね。
夏休みの親の宿題は大変そうですが(;’∀’)
躾は親がやるものだと私も思います。
善意でやってくれますけど、多くの人に求められたら対応するにも限界がありますよね。
実際、太郎の園でも先生は多忙すぎてオムツを換えていただくのが精いっぱいでした。
当時住んでいた地域に療育園があったら、迷わず療育園に入りましたよ。
もともと想定していない事まで求められるとキャパシティオーバーするのも致し方ないのかと。
こんにちは
私の幼馴染みは園長をしています、独身ですが前向きに一生懸命取り組んでいます。
それに昔から幼稚園の先生になると言って高校の進路を決めるときも変わらなかった。
今現在も頑張っています(^o^)
最近話をしたら、子供より親御さんが大変と言ってました、それにせっかく仕事を覚えて任せられるようになってきたと思ったら辞めていく人が多いと頭を抱えていました。
サナさん昭和の遺物と思われても(思っている人いないと思うけど)正しい事を発信しているんだからいいんだよ。
今の人の考え私も分からんけど、常識は有ると思う。
今は幼稚園や保育園だけでなく、小学校の先生も親御さんとのトラブルが原因で辞めていく人が増えている気がします。
(身近でもよく耳にします)
全国的にも教師の人数は足りていないというニュースも耳にしますし、なんとなく面倒な仕事だというイメージが先行して、教師を目指す人がますます減ってしまうのでは…と心配になりますね。
私は自閉症の小学生兄弟の母親で、かつサナさんの批判するところの「任せられるところはプロに任せてしまえ」的ないい加減系の親なのですが(すみません)、特にサナさんの文章を煙たいとかは思ったことがなかったです。
なぜなら、「そこは自分とは考え方が違うんだな〜」と思って、参考にする所はするし真似できない所は無理しない、というスタンスで読んでいたので…。
サナさんくらいに頑張れたらそりゃ良いな、出来ればそうしたいな、という気持ちもなくはないのですが、
何というか、「障害児ママも自分自身の力でやれる範囲の限界までは頑張ってやるべき」という、
自分の『やれる範囲の限界』が分からなくて。
「まだ限界じゃない、まだいける」と思っていたら気付いたら鬱になっていたり虐待してしまったりしないか?と不安なんです。
ワンオペ家庭が増えてますし、そういうママが増えてるんじゃないかな…と思います。
サナさんには自分の「ここまでやれる」っていう限界が分かっていましたか?
限界まで頑張って、その結果失敗したらと想像すると恐ろしいので、余力は残さないといけないと常に危機感があります。
最悪の事態を避け、多少のイレギュラーがあっても持続可能な9割くらいの出力の育児…
そういうのも、やはり甘えでしょうか。
いえいえ、謝らないでください(=゚ω゚)ノ
私自身も幼稚園の先生に1年数か月ものあいだオムツ替えをお願いしていた張本人です(;’∀’)
がんばってもどうしようもないこともあるし、結局は頼らざるを得なくて。
今はこうして余裕をぶちかました記事を書いていますが、当時は「助けて~助けて~」ってもう、涙を鼻水を垂らしながら先生にすがっていた状態でした(恥)
太郎がおかまいなしに幼稚園でオムツに大きい方(うんち)をしてなければ、そのままずっとオムツ替えをお願いし続けていたかもしれません(;’∀’)
私の場合ですが、「やれる限界」は「死にたい」「死んでくれ」と思う気持ちが限界まで高まったときですかね。
他害が連発したりうんちまみれになったり物を壊されたりしたときに、カッとなって子供に手(足も)が出たときはこのままでは子供を殺してしまうと思い、児童相談所に助けを求めました。
あまり詳しく書いたことがありませんが、私は限界を超えるときは子供を虐待してしまいそうになっていました。
そういう時はもうダメだと思い、助けを求めようとしましたが、当時は福祉の支援の手が足りない状態で、実際に本当の意味で助けてもらえることは少なかったんですね。
誰も助けてくれないと思ったときに何度か自殺未遂のようなこともしたことがあります。
そうなってからでは遅いので、やはり限界までいく一歩手前で助けを求めた方がいいと思います。
私は困っている方に関しては甘えているなんて微塵も思いません。
むしろそういう人が助けを求めたときにすぐに対応してもらえるように、自分で頑張れる人は頑張ってほしいと思うんです。
オムツが取れていない子の親御さんの中には、自宅で一度もトイトレを試みることをせずに「幼稚園でトイトレしてもらった方が楽そうだし!」という考えの方もいると思うんですよ。
そういう方がたくさんいて、幼稚園に入園してくる子の半数がオムツがとれていない状態で先生が手一杯だったとしたら、本当に困っている方のお子さんが放置されてしまうこともあり得ますよね。
ママにとっては「自分の子1人くらい」かもしれませんが、先生にとっては「クラス全員」の話なので、親ファーストの世の中がどんどん加速していくとどうなってしまうのだろうと心配になります。
私は「半々」かな。
今の若いお母さんたちは分かりませんが、
「頑張りすぎない・無理しない」できた世代なので、
多少他人任せなところがあるかもしれません。
「む~り~」というアニメもあったことだし(笑)
先生に負担がかかっていなければいいのかなと思いますが、うちは太郎が1年数か月ものあいだオムツ替えをしていただいたのをずっと見てきたので、本当に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいです。
おしっこはともかく、うんちは辛かっただろうな…。
加配ではないものの、ほぼ太郎1人に付いてくれる補助の先生がいたので手は足りていたとは思いますが、当時の幼稚園ではオムツ替えをするために幼稚園の先生になったんじゃない、と思う人もいたのではと思います( ;∀;)
あぁ〜。
さなさん、よく言ってくれました!
普段から私が思っていること、近所の元保育士さんとあーでもないこーでもないと語り合っている事が分かりやすく文章化されている。
素晴らしい。
とは言え、私はさなさんよりも年上、ジュラ紀に生息した遺物
私が育児をしていた頃とは、全て変わってしまいました。
元々晩婚、34歳で出産した私と若いママ達とは考え方の相違、乖離が激しく日々苦悶しておりました。
なんでも権利権利、面倒なことは人に押し付け、自分では責任を取らず、何でも人のせいにすれば良いとすら思える風潮に一人もがいていて。
私の周りではとうとう小学生の見守りの朝の旗振りは先生がやるべきといった意見まで出ていましたね。
先生は朝から路上に立ち、旗を振って、挨拶は先生から声をかけて、教室では席を立たないよう躾をし、お友達とのやりとりも先生が介入して、帰り道は途中まで同行、無事に家に帰ってからもわんぱく小僧が悪さをしないか見張りまで。
先生がどこに住んでいるのか、また県職員?としての勤務時間などは全く考えられてないママ達の思考に呆れるばかり。
先生が教師ではなくなった時が運命の分かれ道だったように感じています。
卒業式で仰げば尊しを歌わなくなって久しいのです。
私の子供は一人は定型で、結婚して孫を楽しみにしていますが、お嫁さんに変な口出しをしないでいられるか自信がありません。
私は貝にならなければ、です
ジュラ紀に生息した遺物(笑)
負けたかも( ̄▽ ̄)
この記事を書くのは勇気がいりました。
というのも、本当に困っている方が悲しい気持ちで読むかもしれないと思ったからです。
私はあくまでも世の中全体の流れに対して意見を言いたかっただけなので、誤解を招くかもしれないことを覚悟して書きました。
一人ひとりの権利を大切にしてくれる、いい世の中になったとは思うんですが、例えば全員がオムツで入園してきたら先生はトイトレ&オムツ替えだけで1日が終わってしまいますよね。
だからこそ、本当に困っているご家庭でなければ、できるだけ頑張った方がいいと思うんですけどね。
なんだか書いていて昭和脳だわーって思いました(;’∀’)
私もお嫁さんに口出ししそうなので次男は結婚しなくてもいいと思ってます(;’∀’)
初めまして。
いつも共感することが多いなぁと思いながら読ませてもらっています。
サナさんの文章、好きです。
ありがとうございます(^^)(*’▽’)
共感していただき、好きと言っていただきとても嬉しいです(*’▽’)